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日本ハム優勝

涙が止まらなかった。新庄がウイニングボールをつかんだ森本と1つになった。七色の紙テープが左中間の2人を包み込む。プロ17年間のすべてが終わった。弟分の左肩に顔を伏せ、新庄の号泣は止まらなかった。

 マウンド上で人さし指を突き立てたナインの輪も外野へ向かった。まさに新庄のためにあった日本シリーズ。誰よりも真っ先に二塁後方で4度、宙を舞った。

 「(強運を)持ってるわ、オレ。ほんと、この漫画みたいなストーリー。出来すぎって思いません?今後、体に気をつけたいと思います」

 涙が乾いた記者会見ではすがすがしい笑顔を浮かべて笑いを誘った。
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 前日、自打球を当てた左ひざは大きく腫れていた。1―1の6回1死三塁からセギノールの勝ち越し2ランに「凄い」と声を張り上げて稲葉と抱擁。直後の打席では二遊間の打球に全力疾走。内野安打にして両手を広げて万歳した。

 「この仲間とできなくなるという気持ちが強くて、7回くらいからボール見えなかった」

 8回、現役最後の打席。涙でボールはかすんだ。初球を見逃し。マスク越しに中日・谷繁が「泣くな、真っすぐしか投げないから」とつぶやいた。体がねじれるほど振った。こん身のフルスイングこそが、新庄が新庄である“証”だった。空振り三振。最後までらしさを失わなかった姿に、万雷の拍手は1分近く鳴りやまなかった。

 今季の新庄は一挙手一投足がまさに「遺言」だった。投手が打たれて沈痛な顔を見せれば「誰も悲しんどらんよ」、高橋や稲田ら知名度は低くとも明るい野手には「もっと素を出していけ」。かつて身近にいてほしいと感じた経験あるベテランを自ら演じ、強いきずなで結ばれた集団をつくり上げた。「(小学)2年生から34年生までやった」野球人生の劇的フィナーレ。阪神入団1年目、地元福岡・平和台で行われた2軍戦は先発落ち。出番は来たが、ネームボードはペンキが垂れて読めなかった。00年オフ、FAでメジャー最低保証額の年俸20万ドルでメッツ入り。夢を追い、海を渡ってまで足りなかったものを積み上げた。

 17歳の時に7000円で購入したグラブを今まで使い続けてきた。踏まれて破れ、相手につかみかかったこともある。阪神のマークと当時の背番号「63」が縫い込まれた黒ずんだグラブは、補修と毎日の手入れを繰り返し守備力が生命線の新庄を支え続けた。そのグラブ、大腿部に腰、アキレス腱と満身創いの体を休ませる時がきた。日米野球を辞退、アジアシリーズにも出場しない。ヒルマン監督は「これ以上一緒にプレーできないのは残念。でも最高の形でグラウンドを去っていける」と別れを惜しんだ。

 4万2030の観衆、そしてブラウン管越しに日本中のファンが背番号1の雄姿を脳裏に焼き付けた。

 「きょうが最高の思い出になります。背番号1?ひちょりにつけてもらいたい。僕の気持ちはそうです」

 通算打率・254は平凡かもしれない。でも“凡人”とは対極にいたプロ人生17年間。あの時と同じように、スコアボードの名前がにじんで見えたのは涙のせい。永遠に色あせることのない強烈な記憶を残して、新庄が野球人生の幕を引いた。
(スポーツ日本)
by jaguar.takahashi | 2006-10-27 10:42 | 高庵TOKYO
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